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川越城 虎櫓

川越城 虎櫓_d0242338_1559486.jpg

虎櫓跡の碑は、川越武道館敷地内にある。
柳沢時代の絵図に基づく推定地である。現在のパンフレット等では秋元時代の絵図を参考に、菱櫓跡の推定地とされている。

本丸にあった虎櫓は、本丸御殿の西側にあった。

現在は川越高校のテニスコートと野球場の境となっている。

櫓の規模は、慶応2年(1866年)、皆川鱗兵衛の川越御城中野張分間之写が貴重な史料である。
本丸南西の富士見櫓は長さ八間三尺(15.38m)、横八間(14.48m)、約68坪。
本丸北西の虎櫓は長さ四間五尺(8.75m)、横四間(7.24m)、約20坪弱。
二の丸北東の菱櫓は長さ四間(7.24m)、横四間(7.24m)、約16坪。

城内の郭について、新記には次のように記されている。(意訳)
本丸
今は家屋がない。南北に門がある。南にある門を天神門と呼ぶ。この門は昔、高麗郡上戸(現河越館)にあったときの城門という。
櫓が2か所ある。西北隅にあるものを虎矢倉(櫓)といい、二重の櫓である。南西隅にあるものを富士見櫓と呼ぶ。この櫓は城中で一番高い所である。富士山が目の当りに見ることができる。土塁は北門から西の隅に至る。また虎矢倉から南西隅の富士見櫓に及び、ここを曲がって東の方の天神門に至る。この門からまた東の方へ廻り、それより北門まですべて塀が築かれている。その外に堀がある。古い地形を想像すれば、この本丸は相当高所にあり要害の地なので、ここを詰の城(郭)として、今の二丸、三丸あたりまで取り入れたと見受けられる。(徳川家康関東へ)御入国の際、修築したがそのままにしていたので、寛永15年、松平伊豆守信綱が外郭を築いて今のようになった。

二丸
本丸の北の郭で、今城主の居館はここに建っている。その居館は東へ寄ったところにあり、ここから南のあたりが本丸の北門となる。また東にも門があり、これを蓮池門と呼ぶ。また三丸へ出るところの門を二丸門と呼ぶ。これも上戸村から移築した城門であるという。

三丸
本丸、二丸の西にあり、北の方から西南を廻って土手があり塀が築かれている。その周囲に堀がある。門は二丸へ入る所に1か所、西の方、外郭へ出る所に1か所あり、これを三丸門と呼ぶ。これも当城が上戸にあったときの門であると伝わる。

外曲輪
3か所あり、ともに三丸の西にある。三丸の堀に沿って侍屋敷、作事役所等があり、門は6か所ある。その一つは三丸に通じる門である。西の端、本町へ出る馬出の内側に門があり、これを西大手門という。三丸門と西大手の中間にあるものを中門という。ここから南へ至る方に埋門がある。また本丸に沿って田曲輪へ通じる門を田郭門といい、この門から少し西に寄り南大手の門がある。中門と埋門の外に食い違いの土手があり、この中にも侍屋敷がある。ここから外、西大手の内側、また一郭にて往来する左右はすべて侍屋敷となっている。
外曲輪から田曲輪門を経て天神門を入り本丸へ登れる。また、三丸門、二丸門を経ても本丸へ登れる。この外郭、下の田曲輪、新曲輪は伊豆守信綱が築いた所である。

田曲輪
本丸の西南、富士見櫓の下、田曲輪門から東北の方、新郭の接地まで本丸の構え堀を廻る郭である。この曲輪の東に清水門という門があり、城外への往来と通じている。

曲輪
二丸の北、新曲輪門から二丸、本丸の構え堀を廻って東南の方、田曲輪の接地までの郭である。この郭に米蔵、郷蔵があり、田曲輪とこの曲輪の外には、すべて土手を築いて堀水が巡らされている。その堀の続きの城の背にあたる所に、よな川(遊女川)の水が流れ込んでいるので水量は十分である。
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by t_samanosuke | 2014-01-01 07:00 | 川越城【川越市】

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by 田中 正純