柏原城山砦
2012年 10月 01日
柏原城山砦は、別名は柏原城、上杉城、上杉砦ともいう。城跡は、入間川の自然堤防上の崖上に存在している。
土塁と空堀が見事に残っている。
崖下には、城山砦跡・狭山市指定文化財史跡入口の看板がある。
天文14年(1545年)、扇谷上杉朝定、山内上杉憲政、古河公方(関東公方)である足利晴氏は80,000名の連合軍を結成、天文6年(1537年)に奪われた小田原北条氏からの川越城奪還を試みた。
川後城の守りは3,000名。しかし連合軍はなかなか城を落とせなかった。北条氏康は、8,000名の軍勢を従えて三ツ木原(狭山市新狭山3丁目・三ツ木公園)へ布陣。天文15年(1546年)4月、氏康は山内上杉憲政の本陣である川越市砂窪(川越市砂久保)に奇襲を決行、憲政軍を破った。また、激戦地の東明寺で扇谷上杉朝定を討ち取った。山内上杉憲政は上州平井城へ、古河公方足利晴氏も古河へ敗走した。
この城山砦は「川越夜戦の時、上杉憲政等が陣城として築城したものといわれている」と二の丸にある案内板に書いてあるが、砂久保の陣へ移動する前の上杉包囲軍の陣だったのだろうか。
本丸は、高さ10m以上はあろうかと思われる急斜面の入間川河岸段丘上に設けられ、河岸段丘上の防御の弱い部分に土塁と堀が普請されている。
土塁は敵が侵入する隙を与えていない。
虎口も南西に厳重に設けられている。
堀の深さも確保されている。
立派な遺構がありながら謎の多い城である。
地図はこちら
by t_samanosuke
| 2012-10-01 07:00
| 河越夜戦【川越市他】