寺尾城
2012年 11月 15日
城跡は、現在の新河岸川の流域の舌状台地にあったものと推測される。
新河岸川に架かる旭橋の近く、日枝神社付近が寺尾城(諏訪右馬亮居城跡)と思われる。
日枝神社の創建は不明とされているが、境内の一部は切岸になっている。
この切岸は、河岸の名残の可能性もあり、城の遺構と判断するのは難しい。
新編武蔵風土記稿の寺尾村、総説には次のように記されている。(意訳)
村内に諏訪右馬亮居城跡がある。北条役帳に二百貫文寺尾諏訪三河守とあり、小田原記に武州寺尾の住人諏訪右馬助とあり、当時この地を領したのだろう。しかし、他の場所にある諏訪氏の城跡が四か所も寺尾と名乗るのは不思議である。
また、新編武蔵風土記稿の寺尾村には次のように記されている。(意訳)
寺尾村、諏訪右馬亮居城跡
村の北にあり寺尾村を含め、上新河岸、下新河岸の三村にまたがり、本丸、二の丸、三の丸と思われるところがある。東西は狭いが畑の間に民家などがあり、その広さは計り知れない。また、砂村の境界に長さ約180mの土塁があり、これを並木と呼ぶという。
関東古戦録には、天文15年(1546年)、川越夜戦の際、諏訪右馬亮が寺尾城主であったこと、そして寺尾城は北条方の城であったことが記されている。
武蔵寺尾の住人、諏訪右馬介を介して、小田氏治の陣代を務める常陸突倉城主、菅谷隠岐守を通し、足利晴氏に言上した。
川越城に籠城している家臣はどうして良いか分かりません。慈悲をもって助命あれば、城を明け渡します。主君氏康は家臣の礼をとって忠節に励みます、と伝えた。
しかし、足利晴氏は拒否している。
諏訪右馬亮は、北条氏から外交を任された武将であることが垣間見られる。
恐らく川越城の支城として、包囲の対象となっていたのであろう。
川越市砂久保(砂久保陣場)が上杉憲政の陣という説を採るならば、寺尾城と砂久保陣場の距離が近すぎる。憲政は、川越城を攻める前に寺尾城を攻めるべきだ。
反対に、砂久保が北条氏康の陣とするならば、砂久保に陣を構えずに寺尾城に入城するべきである。
いずれにしても謎が多い城である。
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by t_samanosuke
| 2012-11-15 07:00
| 河越夜戦【川越市他】